わが友、Mさん(吉田庄一)

野村路子さんの「生還者(サバイバー)たちの声を聴いて」(第三文明社)を読んだ。感想は後日と言うことで、今回は亡き友Mさんのことを書きたい。この本の第一章「ディタとの出会い彼女と歩いたテレジン」の冒頭に、2017112日にポーランドのクラクフから国際列車に乗りオーストリアに向かった様子が書かれている。この行で、読書を先に進めることができなくなってしまった。

 

野村さんがクラクフからオーストリアに向かった日、Mさんが亡くなった。前日奥様から連絡がありYさんと病院に向かった。Yさんは彼をわが組織に入れた張本人なのだ。「吉田さん、大学の後輩ですが、彼はすごく優秀なんですよ。よろしくお願いします」と紹介された。Mさんはそのまま国の機関に出向して、しばらく会うことはなかった。因みにYさんは私の高校の後輩でもある。そんな二人がこの時、トップとナンバー2としてわが組織を牽引していた。

 

ともあれ私はYさんと病院に駆けつけた。痩せてしまって歳を取った老人のようだったが、顔は若々しく精悍さもにじみ出ていた。ハンサムだ。呼吸もままならず手を取り話しかけたが、反応はない。奥様は反応を示したと言っていたがよく分からなかった。翌日、仕事で東京に向かう途中に訃報が飛び込んできた。事務所に戻りYさんに伝えようとしたがあいにく電話中で、目と目が合ったとき大きく×のサインをして、私は病院に向かった。その後Yさんはこの時のことを会議などでよく語っていた。

 

この年にもポール・マッカートニーはやってきた。私は、どちらかというとローリング・ストーンズ派だったので、ビートルズはジョン・レノン以外はあまり惹かれることはなかった。ポールを熱く語る彼に引き込まれるように私もポールが日本に来ると、コンサートに通うようになった。私は、この年も東京ドームに出かけた。後で奥様から聞いたのだが、彼も病床からコンサートに行ったとのこと。既に余命が分かっていた彼は、浮き世の繋がりを遮断していた。この時、なんで連絡を取らなかったのか悔やまれる。

 

彼といつから親しくなったのか覚えていない。音楽、映画、読書、政治と同じ傾向で話があった。秋の職員旅行なのだが、だいたい5ルートに分かれて募集がある。示し合わせたことはないのだが、結果は同じ日程、同じ場所が多かった。思い出すだけでも、海外はニューカレドニア、ケアンズ、北京、上海、台北など、国内は知床、宮古島・西表島、香川・松山など、事前に表示される名簿で分かることになり、結果、現地では同じ行動を取ることが多かった。

 

そんなMさんから2002年に海外旅行に誘われた。私はまだ40代だったが、ひょんなことから役員を引き受けることになってしまい、将来への不安と責任の重さが日に日に高まっていて、これ幸いとばかり海外への個人的な逃亡だった。Mさんは年に数回海外を旅するベテランで、アウシュビッツに行きたいと言ってきた。私もいつかはアウシュビッツに行きたいと思っていたので、男二人の東欧旅行となった次第である。

 

私たちはクラクフからアウシュビッツに向かった。オシフェンチム(アウシュビッツはこの地名のドイツ語読み)駅前で早い昼飯を取り、駅構内を散策した。鉄路が分岐している。ヨーロッパ各地から貨車に詰め込まれたユダヤの人々は、ここを通りピルケナウ収容所に向かったのか、一気にタイムスリップする思いだった。それからアウシュビッツ収容所とピルケナウ収容所を見学した。日がだいぶ落ちてきた帰り道、おんぼろトラックの荷台に乗った太っちょ農夫たちとすれ違った。彼らはピルケナウの収容所に沿って走ってきた、陽気な歌声が響いていた。そうだ、彼らには毎日の生活があるのだ。

 

翌日、クラクフ旧市街の中央広場で、Mさんとビールを飲みながらなんとも言えない経験に圧倒されていたことを思い出す。その夜、落書きいっぱいのクラクフ駅から夜行列車でベルリンに向かった。野村さんのオーストリア行きと違い狭い3段ベッドの客室だった。大柄な現地の人は見るからに窮屈そうで、子どもを抱えたご婦人は、泣き出すとデッキであやしていた。

 

 

彼は58歳の若さで逝ってしまった。間違いなく彼は次期トップ候補だった。私はその後の組織の変遷を傍観的に眺めながら、まだ週3回ほどだがデスクを汚している。彼の撮ったチェコのチェスキー・クルムロフの写真が飾ってある。