本を出せたことで、嬉しいことがたくさんありました。みんなとトライできたこと、私にとっても2020年最大の収穫。でも、哀しいというか口惜しいことも二つあります。自戒を込めて、そのうちの一つをまず書きます。
☆日本のうたごえ運動の第一人者・堀喜美代さんからのお手紙のこと
・以下は、小川から北部戦争展前実行委員長・山岸秀さんへのメール
〈先生、お元気ですか。堀喜美代さんとこの間電話で話しました。というのは、「最後の空襲 熊谷」の本を仲間と発行したのですが、その本には堀さんと同級生だった小林留美子さんの高校生による聞き書きが掲載されています。小林宅から堀さんに電話して、遅ればせながら堀さんに送りました。そうしたら、カンパと共にお手紙がありまして、「北部戦争展」の事などが全く書かれていないのはどうしたことでしょう、ということでした。
私は書きたかったけれど、余裕なくて、自分の短い「思い」の文中に、お世話になった戦争展のことは全く書けなかったんです。
実は、この夏は少し体がきつかった。手を抜いて、いま、後悔しています。
おかげさまで話題にもなり、再販できるくらい売れている本なのですが【といっても初版千五百】、発行元も私と路線が違うことはわかっていました。
皆さんが元気なうちに北部戦争展の蓄積、書いておきたいものですね。関係の皆さんどう考えていらっしゃるのか、とても気になります。
ともかく、以後は、ほどほどの活動になりますが、先生、また改めて。来年お会いできること、楽しみにしています〉
補足します。
私は根っからの不偏不党ですが、人のつながりとして、大久保忠一・関田毎吉さんを筆頭にオールドリベラリストや生え抜きの庶民派コミュニストに可愛がっていただいたという自負があります。子どもらが小さかった頃から、北部戦争展では大勢の方の話を聞いてきました。また長島二三子先生にしてもしかり。それは、私だけでなく、古巣の『タウンタウン熊谷』でも大きく取り上げられていました。そのつながりで、私は今まで色々と取材できました。
つまり、それぐらい、「熊谷空襲」はまち全体のレガシーだったのだと思います。野党が共同しての統一メーデーがあったし、熊谷は、少し前までは、戦災を乗り越えるという一点で、人々がつながっていたのではないでしょうか。
保守共に政党が弱体化し、革新派は分断され、経済も停滞。市民運動がなかなか広がっていかず、歴史認識が弱くなっている今、私達のなし得たことは、はじめの一歩として、とても貴重です。だからこそ、私としては、この本に続いてきちんと書き留めておかなければと、反省しきりです。
堀さんには「少し待っていて下さい」とお手紙しました。タウン誌元上司には相談した際、「本を送る時、自分の纏めたものがあるんだから、同封すればいいのよ」と言われていました。これはできなかったけど、更なる課題です。
※私が取材してきたことは、「さきたま新聞」ホームページで読めます。
写真の説明
〇喜美代さんを囲んで北部戦争展実行委員ら
後列左から4人目が当時の山岸秀実行委員長、2017年10月9日第34回北部戦争展
「声なき声を歌い続けて」記念公演先頭の写真
〇大久保忠一さん 北部戦争展実行委員会顧問(2017年北部戦争展会場)
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