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10年目の3.11(上)(吉田庄一)

10年前のあの時、私は事務所のエントランスロビーで中部地方の方と電話していた。突如、地震を伝えるアラームが鳴り出し身構えた。「地震が来るみたいですよ」と電話を切った途端、激しく揺れた。自席に戻りテレビを付けたが、すぐ7階で全国レベルの研修会が行われていることを思い出し、様子を見にエレベーターで上がり研修室前のロビーまで行くと、第2波が来た。7階ということもあり更に激しく揺れ、立っていることもできず座り込んでしまった。グリーンなどが倒れ研修室からは悲鳴が聞こえる。一瞬建物は大丈夫か心配になったが、事務所ビルは私が担当で建てたので、400ガルまでは問題ないと気を強くした。 

 

事務所は駅とペデストリアンデッキで繋がっていて、すべての電車が止まっていることもすぐに分かった。簡単には復旧できないことも、津波の情報も次々に入ってくる。6階に災害対策本部を立ち上げて被災地の情報収集に傾注するも、津波の映像に釘付けになるだけだった。全国から集まった約100人の宿泊先ホテルは、危険だから受け入れられないと担当部署から悲痛な訴え。帰れなく泊まり込む予定の人数を把握して、災害備蓄品のほか、近隣のコンビニなどで食料や飲料水を調達。事務所は大きな被害はなかったが、後でチェックすると約80箇所、壁にクラックがあった。 

 

暗くなってからだが、結局ホテルは受け入れてもらえることになり、かなりの距離だったがみなさん歩いて向かいほっとした。事務所に残っていた職員は、朝になると把握していた約50人から20人に減っていた。夜中にいろんな手立てを駆使して帰ったのだ。当時職員は300人くらいいたと思うが、家や家族が心配な面があるのだろうが、あの混乱の中ほとんどが帰ったのだ。現地事務所だが、被害もそれなりにあったが、岩手、宮城、福島の職員や家族は全員無事でほっとした。 

 

こんなエピソードもあった。宮城の海岸沿いに住んでいた職員。地震の日に休暇を取り近所に内緒で奥さんと海外旅行に行った。地震があったことは知っていたが家族とは連絡が取れていたのでそのまま旅行を続けていた。でも、家は留守で姿が見えない。近所では行方不明者として名簿に載り、津波に流されたと思われていたそうで、帰国後バツが悪かったと、現地に行ったときご本人は頭をかきかき話してくれた。 

 

私の部署に防災士として仕事以外でも活動している職員がいた。彼が、そっと耳打ちして、「今、防災士仲間からのメールで、放射能が大変らしいので、そっちも気をつけてくれと」なんか隠し事のように言いに来た。早速彼に放射能測定器を調達してもらい、事務所の周辺を測った。といってもいつもどのくらいなのか分からなかったのだが。枝野官房長官は「直ちに影響はありません」を繰り返していた。と言うことは、ほんとうはヤバいのかもと不安になった。今のコロナ感染症と同じような感じだったのか。 

 

少し経つと、日本中から支援物資が集まってきた。エントランスロビーも一杯になってしまった。外からも見えるので、近所の人たちからも、いろいろな物を持ってきて現地に届けてくださいと託された。トラックを手配して、受け入れ先に交渉して、警察に許可証の交付をお願いして、支援物資を仕分けして、こんな作業がずいぶん長く続いた。被災地は、日本中から支援物資が集まり、いらない物も多く寄せられて、受入交渉は難渋した。 

 

こんなエピソードもあった。警察署に通行許可証の交付をお願いしにいったとき、計画停電となった。警察も停電かと驚いた、実は私どもの事務所は計画停電にならなかったのだ。何人かの警察官が集められ一斉に飛び出していった。信号機も消えているのだ、あわてて交通整理に走ったのだ。受付の警察官は、蝋燭の明かりの下素早く手続きをしてくれた。「私たちが行けない分頼みます」と頭を下げられたのには驚いたが、あの時は、多くの人たちがあの警察官と同じような気持ちだったと思う。 

 

被災地への支援が一段落した時分、深谷の友人から「脱原発の運動を手伝ってくれないか」との話があった。私は熊谷に住んでいるのだが、二つ返事で協力することになった。深谷のグループに参加して、地元での勉強会や活動を手伝っているうちに、放射能測定をやろうとなり、ホットスポットファインダーという計測器を買った。国や地方自治体が、私たちが知りたい、知らなくてはならないデータを、特定のモニタリングポスト以外あまり公表していないのだ。埼玉県でも、感受性の違いから子どもたちへの被ばくが懸念された。なんとしても避けなくてはならない。学校給食のベクレル調査も行ったが、自然と埼玉県中の公園の空間線量を測り、私たちが決めた基準(震災前の法律に準拠)を超える値は、管理する自治体に除染するよう要請する活動を行った。しかし、県や自治体、管理事務所の判断が統一的でなく、対応してくれるところもあったが、おしなべて足腰は重かった。 

 

私たちは、埼玉県の公園放射能マップを作成して発行した。今までに16冊を数える。放射能事故から10年が経過するが、大量に放出された放射能物質セシウム137の半減期は30年なのである。未だにホットスポットは点在している。放射能は物理的な半減期でしか低減しないのだ。今でも、移動と拡散、集積を繰り返している。

 

※以下のデータは、2021年03月04日 16時50分時点のモニタリング情報 です。

熊谷市 熊谷地方庁舎  0.047μSv/h 

秩父市 秩父地方庁舎  0.045μSv/h 

加須市 環境科学国際センター  0.047μSv/h 

さいたま市 埼玉県庁  0.043μSv/h 

狭山市 狭山保健所  0.041μSv/h 

三郷市 三郷高校  0.068μSv/h 

感覚的には、この10年で、空間線量は0.02μSv/hくらい減っているが、実際に測ってみると、いまだに0.1μSv/h近い場所は普通に点在している。 

※写真の説明

①先頭は、2015年の熊谷スポーツ文化公園の実測値

②下の写真は、実際に測定した場所とデータ。福島原発由来のセシウム137がはっきり確認できます。

 単位はマイクロシーベルト