10年目の3.11(下)(吉田庄一)

10年目の3.11(上)では、10年前を振り返ってみました。今回は、現時点での私の思いを綴ってみたいと思います。主に原子力発電所の過酷事故についてです。 

  

 

私たちは、原子力発電所のメルトダウン、メルトスルーという過酷事故を経験しても、原子力発電という怪物と決別できないでいる。大地震と津波で暴走した怪物は、何十万人の日常を奪い大地を汚した。そして10年の歳月を持ってしてもその爪痕は大きく、以前の日常を取り戻せない人たちは多い。大地の汚染は放射性物質の物理的な半減期に準拠し、とてつもなく長い経過の中でしか減っていかない。大量に放出されたセシウム137の半減期は30年なのだから。 

  

廃炉作業も簡単ではない。そこで働いている人たちの危険もさることながら、溶け落ちた核分裂生成物や使用済み核燃料などが、再び牙をむく可能性はゼロでは無いのだ。先日の地震(2月13日夜)が原因なのか原子炉格納容器や使用済み燃料プールの水位が下がり続けているというニュースがあった。水を注入し続けているので問題ないとしているが、次に来る地震でむき出しになったらどうなるのか。先の地震の揺れは200ガルくらいだったそうだ。それ以上の揺れを記録する地震は、最近の日本列島では多発している。 

  

福島第一原子力発電所の過酷事故でドイツは原子力発電という怪物と決別した。科学的に見れば当たり前の結論だ。しかし国連を含めてこの怪物と決別できていないのが現状だ。日本では、あれほどの事故を経験しても、原子力村の面々はしぶとく再稼働や輸出を狙っている。彼らは、SDGsを利用し、脱炭素社会の実現には原子力発電が必要というロジックを使っている。執着心のすごさは、客観的に見れば常軌を逸していると思うのだが、おそらく様々な原発利権のなせる業なのだろう。関西電力の原発地元との癒着事件を見るだけでも想像できる。

 

ドイツ在住でノーベル文学賞候補の多和田葉子さんは、3月6日ベルリンでデモを行い『2011年の炉心溶融で「信頼の核」も溶けたとし、「破壊する機械を動かし続けることに何の意味があるのか」と訴えた。(3月8日東京新聞)』共同通信が、東日本大震災や東京電力福島第一原発事故の被災者300人に実施したアンケートで、将来的な廃止も含めてなくすべきだと答えた人が82%に上ったそうだ。みんなわかっているのだ。原子力発電という仕組みは、私たちに手に負えるような代物ではないことを。原子力発電から決別しよう。原子力発電を進める人たちは、人類の未来に無責任な人たちなのだ。