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私の3.11「一本のペットボトル」(米田主美)

10年前のあの日、私はさいたま市中央区の公民館に勤めていた。

事務室のドラゴンロッカーの引き出しが飛び出て、事務机が左右に揺れたかと思うと上下にも揺れた。調理実習室を使っている人たちがいたので、走って行き、ガスの火を止めて荷物を片付けるよう指示した。子育て中のお母さんは子どもを抱っこしたり、ベビーカーを押して庭に出ていくのも大変だったのかあまり慌てる様子もなかった。それほど大きな災害に見舞われたことのない世代なのでそのうち治まるだろうと思っていたに違いない。職員だけがバタバタとしていた。今夜、避難する人々を迎え入れるのに毛布が何処に入っているのか、テレビが何処に入っているのか、避難訓練をしたことのない私たちは慌てた。

 

やがて、母親の介護をしている私は先に帰宅をさせてもらった。

ところが、一歩外を出れば、状況が一変していた。埼京線は走っていなかった。バス停に長蛇の列ができている。長い時間をかけて大宮駅まで着いた。大宮駅は全てシャッターが降りていた。コンコースの屋根から雨が落ち通路が水浸しだった。ここで今夜過ごすのだろうか。携帯が通じないので誰にも相談できなかった。孤独で自分の寝床を探さなければならなかった。駅前のパレスホテルに行った。ドアを開いて驚いた。何と足元からびっしり人が絨毯に座り込んでいた。近隣のホテルを探そうにも電話がかからない。パレスホテルのカウンターではもう、近隣のホテルは全て埋まっているとのこと。

 

また、大宮駅に行ってみた。状況が変わる様子はない。「今からスーパーアリーナへ行くバスが出ます」とマイクの声が聞こえる。アリーナか、ホテルに戻るか思案した。寒くて手足が凍えそうだった。ホテルに戻った。すると、ホテルマンが「ソニックの小ホールを使ってよいとの指示があったのでご案内します」という声が聞こえた。皆立ち上がってぞろぞろと移動する姿は難民そのものだった。テレビで視る難民たちと自分が重なった。行き先を失った人間はこうして空腹で今夜寝る場所を探すのだ。携帯は何度かけても通じなかった。小ホールで自分の座席が確保でき、温かいし、申し分なかった。座席を確保した私は近くのコンビニへ食べ物を買いに行った。棚は空でおにぎりが一つだけ残っていた。何が起きたのか情報がないまま人々は知らない者どうしで座っていた。後ろから、「ただいま、支配人から水を皆さんにということです」会場から大きな拍手が起きた。一本のペットボトルのありがたさを骨身に感じた。隣の男性が横浜から仕事で来たのだが、宮原駅で電車が止まったままなので歩いてきたという。眠気が襲ったが、眠ることはできず、うつらうつらしているうちに朝がきた。東北で大変なことが起こったことを知ったのは翌日だった。

パレスホテルの前を通り過ぎる時、今でもあの日のことが思い浮かぶ。