「ここにいるよ」(吉田庄一)

ハラミちゃんの「ハラミ定食2」を買いに久しぶりにCDショップに行った。といっても、このところレコード屋、CDショップなどめっきり少なくなった。手に取って買いたいというささやかな欲望はなかなか叶えられない。そういう私も「ハラミ定食」や「ハラミ定食おかわり」はアマゾンで買っているのだが。なんでもアマゾンにはどこか抵抗があるのだ。本も同じで、お目当ての本は熊谷辺りの店頭には並ばないものが多い。最近も“あるかなあ”なんて儚い夢を抱きつつ、3週間も本屋めぐりのした挙句、結局アマゾンで買ってしまった。

 

久しぶりのCDショップ、「ハラミ定食2」を探していたら、中島みゆきのベストアルバム「ここにいるよ」が目についた。だいぶ前に買おうと思って忘れていたのだ。2枚組で「エール盤」と「寄り添い盤」となっている。曲のほとんどは持っているのだが、「ホームにて」と「タクシードライバー」を車のCDコレクションに追加したいと思っていたのだ。

 

そこでだが、この2枚のCDをじっくり聞いていると、戦争をモチーフにしたものが多いのに気づく。2月24日、ロシアのウクライナ侵攻以降、テレビや新聞からウクライナでの戦争の話題が、シャワーのごとく浴びせられている。パレスチナで、イラクで、アフガニスタンでこれほどまで報道されたのだろうかと釈然としないものがある。戦争は新たな憎しみを生む。ウクライナの地が平和になることを祈念するばかりだ。

 

まず、「旅人のうた」だ。車のコレクションにありよく聞くのだが、この歌詞には毎度ギクっとさせられる。

「西には西だけの正しさがあるという

東には東の正しさがあるという

なにも知らないのは さすらう者ばかり

日ごと夜ごと変わる風向きにまどうだけ」

 

ウクライナ戦争も、西と東のプロパガンダ合戦が続いている。といっても日本は西側?なので西側のプロパガンダがほとんどだが。メディア関係者や所謂専門家の発する言葉に正しさはあるのか。

 

次に「ひまわり“SUNWARD”」、実はこの曲は初めて聞く。

「あの遠くはりめぐらせた 妙な柵のそこかしこから

今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から

目を覚まされた鳥たちが 燃え立つように舞い上がる

その音に驚かされて 赤ん坊が泣く

たとえ どんな名前で呼ばれるときも

花は香り続けるだろう

たとえ どんな名前の人の庭でも

花は香り続けるだろう

私の中の父の血と 私の中の母の血と

どちらか選ばせるように 柵は伸びてゆく

たとえ どんな名前で呼ばれるときも

花は香り続けるだろう

たとえ どんな名前の人の庭でも

花は香り続けるだろう

あの ひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ

どこにでも降り注ぎうるものはないかと

だれにでも降り注ぐ愛はないかと」

 

ウクライナ人とロシア人は兄弟だという。母親がウクライナ人、父親がロシア人という人も多いだろう。近親憎悪という言葉もあるが、今までは「国」という違いもそれなりに折り合いうまくやってきたと思う。この戦争で、憎しみが増さないことを祈るばかりだ。

 

このアルバムに「空がある限り」という曲がある。

「アゼルバイジャンの夕暮れは 女満別(めまんべつ)の夕暮れと変わらない

歩いているうちにいつのまにか 紛れ込んで続いてゆきそうだ

銃で砕かれた建物や 鉄条網が視界を塞いでも

まるで昔からいるように 私はそこにいるだろう」

 

アゼルバイジャンとアルメニアの戦争のことだ。中島みゆきは、南コーカサス地方の民族紛争に心を痛め歌ったのだろう。そうウクライナの夕暮れも、ロシアの夕暮れも、熊谷の夕暮れと変わらないのだ。熊谷空襲という理不尽な殺戮から77年、世界のあちこちで未だに戦争だ続いている。武器がある限り戦争はなくならないのだろうか。