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戦跡巡り熊女生の巻(吉田庄一)

 

台風の影響で目まぐるしく変わる天気予報に気をもんだが、当日は雨の心配もなくなりウオーキング日和となった。集合時間は13時20分熊谷市立図書館3階。私は13時には郷土資料室の熊谷空襲コーナーについたが、まだ誰も来ていない。ということで、この展示室をじっくり見学できた。また、大久保喜一の作品展も開催されていた。ところでこの「大久保喜一」という名前、すごくインプットされているのだが、まったく思い出されない。魚の骨がのどに引っかかったような感じで、今もすっきりしないのだ。高校時代に美術の教師から聞いていたのか・・・、彼も画家だった。

 

少しずつ参加者が集まってきたが肝心の熊女生たちが遅い、先生たちも気をもんでいたが13:30にはどうにか集合となり、さっそく大井学芸員によるレクチャー開始。冒頭から資料の見方や歴史を勉強する心得などの話、おおアカデミック!熊谷空襲の概要はコンパクトにまとめていただいたが、やはり時間が足りない感じだった(反省)。

 

そんな事情で予定は若干遅れ気味、ともあれ総勢25名は3班に分け戦跡巡りを開始した。A班(吉田)、B班(小川)、C班(米田)がリーダー兼解説者となり、まずは「女子高の北門」を目指した。今回は全員が熊女の生徒とOGなので、星川通りを右に曲がり清水橋を左折するコースに変更。鉄道が敷かれるまで旅人などは中山道を通った。17号の佐谷田陸橋でなく、久下方面からニットーモールとティアラの間を通り、星川にかかる清水橋を渡り少しして左に曲がり熊谷宿に入ったのだ。ここをまっすぐ進むと突き当りが熊谷女子高校だ。如何にも女子高らしい外構だが、よく見ると古い門柱の頭が見える。おそらく当時正門だったのだろう。ここで以前話題になった「皇紀2600年の碑」のことや、隣が県の醸造試験場で熊女と同様に焼失したことを説明した。外構を東回りに進み北門に出ると、B班も合流、なんとC班は校庭を歩いていた。ここで、「鈴懸の木」や空襲時の寄宿舎の話をする。当時、遠方から来ていた生徒が寄宿していた。理研(軍需工場)から帰った生徒たちに、巣山先生が今日は浴衣に着かえないで作業着のまま寝なさいと言った。生徒たちは嫌な予感がしつつ眠りについたが、空襲が始まりみんな北方面に逃げることができ、誰も被害がなかったそうだ。熊高女にまつわるエピソードは多い。

 

A班は次の目的地の中央公園に向かう。末広の交差点を左に曲がる。西田飴の看板があり、生徒の皆さん「西田飴だ」と声を上げる。私が事前に飴を配っていたためだが、熊女生ともなじみの店だろう。私が事務所でここの飴を配ると「わあ~西田飴だ」と反応したのは熊女の卒業生だった。信号を渡り「平和の鐘」について説明、そのまま市役所側にある「戦災ケヤキ」に進む。先日熊谷文化センターで上映された映画「わが青春つきるとも~伊藤千代子の生涯」の中で、諏訪の製糸工場「山一林組」の労働争議が描かれていたが、この中央公園はその林組の大きな製糸工場があった。戦時中は富士光機という軍需工場になり、戦後は冨士見中学と市のグランドと公園になった。敗戦後富士光機の倉庫に数十万冊の「戦陣訓」があった。証拠隠滅ということで、熊高女の教員が校庭で燃やし1週間かかったという。生徒たちは「戦陣訓」はピンとこないようだ。東条英機が作成した軍人の心得「生きて虜囚の辱めを受けず」、捕まるくらいなら死ねということなどを説明。そして「戦災ケヤキ」なのだが、新しくなった掲示板にも西国民学校のケヤキ8本を移植と書いてあるが、このケヤキの8本が特定できない。10本という人もいるのだが、何か印をつけてもらいたいものだ。どこかで図も見たことがあるのだが・・・。あと焼失した西小跡に槙や紅葉を植えたとあるが、これは現市役所のどこかにあるのか・・・(宿題)

 

「中家堂の石灯籠」、いつも思うのだが後世に伝えるためこの場所を設置している中家堂さんには頭が下がる。ここでは、焼失した報恩寺、警察署、郵便局のあった場所、コンクリート製で焼失しなかった電話局と敗戦の翌年、天皇が屋上から焼けた市街地を視察したことなどを説明。高城神社の西側の道を進み同じく北側の道との交差点を左折。この道は、戦時中は熊谷の行政機関が集中する裁判所、市役所、公会堂、税務署などがあり、東に進むと熊女に突き当たることを確認。さらに明石医院の掲示板も説明。何人かは夏目漱石の「坊ちゃん」を読んでいたが、モデルとなった弘中先生が熊中に赴任していたことと、ここが居宅だったことを説明したら、皆さん少し驚いていた。折角なので明石医院の黒塀を見て、千形神社や陣屋跡のことなどを説明。

 

その後、「聖パウロ教会」、「熊谷寺」、北村写真館を説明(大井さんのレクチャーで触れていたので)。A班に同行した嶋田さんが、折角だから八木橋の中の中山道を通りましょうというので、八木橋で小休止。デパートの中を中山道が通るなんて、生徒たちは驚いたかな。同行のY先生が西口に中山道の碑があるというのでみんなで確認して、厄除け平和地蔵堂」へ向かう。歩道橋の上から空襲で焼失した本町方面と石原方面を確認、今はイオンになっている旧片倉製糸の石原工場は焼けなかったこと、町の東にあった片倉製糸熊谷工場は焼けたことなども説明。

 

「厄除け平和地蔵堂の舌代」や建てた人たちのこと北条堤のことなど説明し星渓園を通り「石上寺」に。石上寺到着時間をだいぶ過ぎているので少々焦り気味に通過するが、鹿児島寿蔵さんの歌碑は触れざるを得ない。空襲当日ご本人は東京に出向いていたが奥様が被災されている。疎開先が熊女のすぐ北だったことを伝えたかったのだ。生徒から隣の芭蕉の歌碑を聞かれたが答えられなかった。小川さんに確認するとその場所から発掘されたと。これではなんでこの場所なのかわからない。戦跡巡りも歩くたびに宿題が増える。

 

石上寺では、案の定ご住職が待ちわびたご様子で立っていた。本堂への斜面の白い曼殊沙華が美しい。ところどころに赤もある。早速戦災ケヤキの説明を受ける。黒い洞(うろ)が幹の中央少し上から下に裂けるように伸びる。木はこの洞を覆い隠すように成長したという。そうこうしているうちにC班、B班の順で到着。逆転している。本堂に上がらせてもらいご住職の話を伺う。祭壇中央には秘仏である戦災に遭った「空海像」、手前には本堂建て替え時に出土された鬼瓦が据えられている。改めて、空襲の惨禍とこの歴史を伝え続けたい思いを聴く。生徒からは、本堂に備え付けられている屏風等についての質問があった。一の谷合戦の屏風、忍城城主からいただいた仏像と着物など丁寧な説明を受けた。私から、空襲に関係ないが、モースについて尋ねた。まず生徒たちに、大森貝塚のこと知っているか聞いたところ、意外に皆さん知っていたのには驚いた。この頃の教科書には掲載されていないと聞いていたが、そうでもなさそうだった。

岡安住職の話

「モースが吉見の百穴を調査に来た。東松山にはいい旅館がなく熊谷に宿泊した。高名な学者なので連泊していただき、石上寺で講演することになった。その講演がダーウィンの進化論から、人類の祖先はサルであるという内容。これに聴衆の中から反発が起こり翌日には宿に押しかけ帰れと。モースはひげが濃く日本人から見ると毛むくじゃらな感じで、あんたたちの祖先はサルかもしれないが、自分たち日本人は違うと。」文明開化の赤鬼の感覚か。

 

予定時間をだいぶオーバーしてしまい「戦災者慰霊の女神像」に急いだ。長崎の平和記念像と同じ北村西望作で同じものが3体あること。裏に亡くなった方の名前が刻まれていること。この辺りで約100名が亡くなったが、川沿いのお店が焼け落ち燃えながら壁が川を覆ったため亡くなったこと、灯籠流しのことなどを説明、最後の目的「身代わり地蔵」へ。久山寺のことや商店街の人たちが管理していることなど説明して戦跡巡りは終了。同行した朝日新聞記者(9/18掲載)と埼玉新聞記者(9/19掲載)もうまくまとめた記事を掲載してくれた。

 

反省点は、ちょっと詰め込み過ぎで時間が足りなかったことか。今回のレベルの戦跡巡り(一番街からレンガ壁、松岩寺などは外したのだが)は3時間ではきつく3時間半から4時間は必要だった。でも好奇心旺盛な生徒たちはきっと何かをつかみ、そして、77年前ここ熊谷に「最後の空襲」があったとことを理解し、今後の歴史学習に役立ててほしいと思う。

今後は、市内の他校に広げていきたい。