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書評「南海トラフ地震の真実」吉田庄一

作者;小沢慧一

発行;東京新聞

 

静岡県沖から九州沖にかけての南海トラフでは、今後30年以内に70%~80%の確率でM8~M9の巨大地震が発生する。これは今現在でも政府の地震本部のHPに掲載されているし、私たちにも刷り込まれているフレーズだ。そして日本の地震対策の根幹にもなっている。私は静岡の企業の経営にかかわっていて、東日本大震災前から防災対策について助言を求められてきたが、こういった確率が背景にあったことが大きいだろう。

 

ところで、今後30年以内にM8~M9クラスの巨大地震が発生する確率が70%~80%という数字だが、1995年阪神淡路大地震、2011年東日本大地震、2016年熊本地震、2018年北海道胆振東部地震などの巨大地震が南海トラフ地域以外で発生していることから、はたして信じられるのかと疑っている人は多いのではないか。私もその一人だった。本書はこの疑問に正面から向き合い、非科学的な確率が独り歩きをしてきたことを炙り出した。

 

まず驚くのが、南海トラフ地震の発生確率は、その他の地域の発生確率と違う物差しで決められているということだ。他の地域の物差しだと、南海トラフ地震の発生確率は20%程度だというのだ。南海トラフだけが下駄を履かされているということだ。どうしてこのようなことが起きているのか。作者は、地震学者や政府の委員会の議事録など丹念に調査し、そして根拠となっている地震予測モデルに切り込んでいく。

 

地震予測モデルとは、過去の地震の時期と規模から次の地震を予測するというもので、南海トラフ地震の確率は、高知県室津港を管理していた江戸時代の役人のデータを根拠にしていた。そもそもこの一地点のデータで南海トラフ全体を予測するのは無理筋と思うが、これは作者も同じで、世襲で室津港番役を務めた久保野家に伝わる文書を実際に検証する。そして訪れた室戸で、ある発見をすることになる。その文書もさることながら、室津港の観光案内板に「室戸は地震のたびに土地が隆起するので、港の水深が浅くなります。地震で水深が浅くなるたびに、港は何度も掘り下げられてきました」という説明だ。

 

そもそも久保野家文書にある過去の地震時における潮位の記録を根拠にした地震予測モデルには、港の浚渫は触れられていない。この港は土佐藩にとって重要な港で、毎年数千人規模の工事が行われていた。要は根拠となるデータとしては信頼性が担保できないものなのだ。地震科学者たちは、ここだけ地震予測モデルを採用するのはおかしいし、しかもそのデータも怪しいと気づいているのだが、社会的には今でも修正もされず独り歩きしている。なぜなのか?

 

一旦公式に決めてしまったものは修正が難しいのだ。たとえ科学的に間違っていても、国土強靭化計画などの政策が優先される。多くの予算が投入され、利権構造も出来上がっている。地震学者たちにも研究予算や地位など私欲により、科学的知見は後景化されてきた。政治、行政、企業、学者など、「原子力ムラ」ならぬ「地震ムラ」が出来上がってきたのだ。

 

2018年北海道胆振東部地震は、北海道全域がブラックアウトになるという事態を引き起こし記憶に残っている人も多いだろう。作者は、ここで倒壊した家の横でうずくまっている一人の高校生に出会う。妹の救出を見守っていたのだ。無言の妹が担架で運び出されたとき彼は「だって、テレビや新聞では、いつも次に来るのは南海トラフだって・・・」そう言い、あふれ出る涙を止めることができなかった。作者がここまで深くあきらめずに真実を追求してきたきっかけである。「次は南海トラフ(自分の地域は大丈夫)」の刷り込みが、実際は日本列島のどこでも起こりうる巨大地震への備え、恐怖を麻痺させている。この構造は、社会のあらゆるところで存在して、政策決定を歪めている要因となっている。

 

本書を読んでいるとき作者が菊池寛賞を受賞したという報道があった。様々な問題に切り込んでいる他の記者への励みになるだろう。が、国は下駄をはかせた数字を未だ修正していない。