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M君の死を悼む(吉田庄一)

能登半島地震に、日航機と海保機の衝突事故。暗澹たる年明けとなった2024年。個人的なことだが、1月5日にM君が亡くなったという連絡が入った。同じクラスになったことはなかったが、私たちはM君の部屋をたまり場に1970年代の青春を謳歌していた。彼の部屋には有象無象が集まり餓鬼のサロンと化していたともいえる。友達の友達は友達とばかりにいろんな人たちと知り合いになった。彼は映画監督を志していた。高校生の時ドキュメンタリー映画を作成し、私もフィルムを切ったり貼ったりと手伝った。確かあの映画は高校の文化祭で上映したと思うが定かでない。

 

私は彼の死を、とうとう来たかと受け止めた。実は2010年部屋(3LDKのマンションに一人で住んでいた)で倒れているところを発見され、一命を取り留めたものの身体が不自由で認知機能も低下してしまい、ずうっと施設に入っていたのだ。病院からは治療が終わると退院を迫られ埼玉県、群馬県と入所できる施設を探した。そしてどうにか入所先が決まり一段落したところで、その施設に何回か見舞いに行った。車いすに固定された彼は高校野球を見ていた。私が行くと微笑んだ。話をすると微笑むだけで言葉は返ってこなかった。何回目かの見舞いの時、看護師が言った。「Mさん、全くわかっていませんから」と。冷たい言葉だったが現実なのだろう。私は会うのがつらく徐々に足が遠のいていった。

 

葬儀は近しい親族と友人3名だけだった。遺体と対面したが入所していた時の形相でなく綺麗に整えられていて安心した。式の途中で司会の人が彼の青春を振り返っていた。おそらくお姉さんに聞いたものを脚色したのだろう。私は、ちょっと違うよなと思いながら聴いていた。そして、彼の部屋でたむろしていた時のことが走馬灯のように蘇ってきた。

 

彼の部屋は広かったが、その部屋を占領するかのようにとてつもなく大きい革張りの応接セットが置かれていた。どうやって入れたのか疑問だったが、窓際に長いソファーが置かれその両端に窮屈そうに向きを変えた一人掛けが嵌っていた。熊谷基地の進駐軍司令官の部屋のものだそうで、撤退するとき置いて行ったもの手に入れたそうだ。彼は映画への造詣が深く私は足元にも及ばなかった。音楽の志向は少し違っていた。私はブルース、ブリティッシュロック(レッドツェッペリンやローリングストーンズのコピーバンドをやっていた)だったが、彼は当時の時代を反映してかフォークソングが好きでギター片手によく歌っていた。遠藤賢司「カレーライス」(三島の割腹自殺を揶揄したような内容だったか)、加川良の「教訓」、高田渡の「自衛隊に入ろう」、高石ともや、岡林信康など思い出す。私に気を使ってかロックぽいのっではRCサクセションの「デイ ドリーム ビリーバー」がいいと。忌野清志郎が訳した「僕はデイ ドリーム ビリーバー そんで 彼女はクイーン」が壺だった。

 

彼は関西の大学に行っていて彼女と半同棲のような生活をしていた。卒業と同時に彼女は離れていったのだが(よくあること)、乗り越えられなかった。爾来独身を通したのだ。時間が前後してしまうし不確かなのだが、「僕はデイ ドリーム ビリーバー そんで 彼女はクイーン」は、暗示だったのかもしれない。

冥福を祈る。

 

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コメント: 2
  • #1

    にじ (水曜日, 17 1月 2024 23:50)

    うーん。つくづくと、うーん。今まで、時たまお話を聞いている限りでも、ご家族・友人・先輩、たくさんの方を見送られているでしょ。またお一人天国へ~なんですね。しかも同級生。なんともいえない挽歌です。私はどちらかといえば、フォーク派。R.C.サクセションの頃からの清志郎ファンで、たまらなく郷愁を誘う今回のブログでした。高校時代、学校になじめず、合唱部も途中で退部した根暗の自分と引き替え、なんともドラマチックな青春、そしてその後のMさんの顛末。映画になっちゃうね。ご冥福を祈ると共に、「しっかり生きなきゃなあ」って読後感です。
















  • #2

    吉田庄一 (月曜日, 05 2月 2024 16:48)

    イギリスのビートルズに対抗して、アメリカのエンターテインメント業界が作り上げたモンキーズ、デイドリームビリーバーは彼らのヒット曲だったが、この曲、日本では忌野清志郎の訳が通っていて、今でもいろんな人がコピーしている。