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戦後七十九年目の三月十日に  ―浩子さんに聞いた東京大空襲―(小川美穂子)

 大きな瞳、明るくて優しい声の浩子さんが、語り出す。「父はね、」浩子さんは昭和三十七年生まれ、私より四歳年下だ。折々に「小川さん、これヒロコの手作り、マスクチャームだよ」、「これ(クッキー)、ヒロコから」、「ヒロコが今、毛糸の帽子、編んでるからね」とお連れ合いのTさん。私が貸した本の返礼やお土産として下さった心ずくしの数々だ。T家を訪問する用件も何度かあり、いつしか、大麻生で根を張った暮らしをしている一家と心安い仲になっていた。彼女が月島で生まれ育ったということも知っていた。

 ある時、Tさん曰く、「ヒロコから東京大空襲の話、聞いてみない?」。これは、私が「熊谷空襲を忘れない市民の会」会員でそんな関連の事柄にアンテナを張っていること、「熊谷市郷土文化会」会員で歴史好きを知っていて、水を向けて下さったのだろう。それから三年、やっと今日、実現した。三月十日、三月十一日というメモリアルディを前に、「八日はどう、僕も家にいるし」との言葉に、「今聞いておかないでどうする!」と胸中に響くものがあった。

 Tさん設計の居心地のいい居間で、丸テーブルの上に地図を広げながら三時間余。話を進めてほどなく、浩子さんが簡単なメモと、四十八人のお名前が書かれた中村家の家系図を取り出す。赤丸で囲んだ二十九人は、もし空襲で親たちが亡くなっていたら、この世に生まれてこられなかった。

 

 浩子さんは月島で両親と祖父母、兄弟と暮らしていたが、三月十日という日の朝、「また始まったよ、早く学校へ行こう」。昭和八年生まれ、今は亡き父・邦男さんは真剣な顔つきで被災体験を語った。三人兄弟の長男、乳飲み子を抱えた母を助ける立場だった。

 その日未明、墨田区高橋(たかばし)。貸屋に暮らしていた一家は、お隣の大家さんと共同の防空壕へ避難したものの、外を窺っていた。父と大家さんは早い段階で脱出を決意。これが良かった、半年に満たない末っ子は祖母が負ぶって、皆で隅田川を目指す。

 川にあった筏の上で明かした一昼夜。川は煮えたぎり、真っ赤な灼熱地獄だ。筏に降り掛かる火の粉。とんできた風呂敷を川の水で濡らし振り払った。一家五人地上へ降り立った。負ぶわれたまま祖母が川に落下した際、首まで水に浸かり、亡くなったものと思われた赤ん坊も無事。しのはし(四の橋?)辺りから岸へ上がり、錦糸町まで歩いた。

 この時、振る舞われたお握りがおいしかったこと。いつもひもじかった暮らしの中で忘れられない思い出として、父は子どもたちに語り伝えた。脱線するが、私はここで、自分の父の口癖「南瓜は一生分食べた。もう自分は食べないよ」に触れると、浩子さんに「それはまだ良い方よ。もっと悲惨だったみたい」と返された。

 一家は錦糸町から祖父の勤め先だった船橋へ逃れた後、茨城県(祖母の実家)へ疎開。疎開先では、東京っ子はいじめられた。その後、府中へ。戦争末期、軍需産業に従事していた腕のいい祖父は、都下の工場に徴用された。そこでは、機銃掃射を受けた。

 少年は操縦している米兵の顔を見た。母の手伝いで買い出しに出ると、物々交換の品を手に一人玄関へ向かう。弟を負んぶした母は物陰に。「子ども相手だと、少しでもよくしてくれる」からだ。という訳で一人路地に逃げ込み走っていた時のこと。更に動く列車を目がけての機銃掃射。米軍では「ガンカメラ」が使われていた。「日本軍は勝てるわけがないよね」と浩子さん。遺体を前に大人は「ぼくは見ちゃだめ」と少年を思いやった。

 

 そのひとときの後、夕方、私は駅でガザへの「誰の子どもも殺さないで」とスタンディング。隣でガザの少年の詩を知人が読みあげていた。夕闇が滲んだ。